福田寺のご案内About

福田寺について

福田寺は、かつて広大な丘陵地帯にあった
閑静な林間霊場と謳われた面影を残す、
緑に囲まれた曹洞宗のお寺です。
往古は観音寺と称されていましたが、
寛永元(一六二四)年に
都濃郡野上村の住人野上六左衛門によって
観音堂を建立し福田寺と改められました。
その後、火災により焼失しましたが、
奉安する如意輪観世音菩薩坐像の
功徳の篤さに感嘆し、
明暦四(一六五八)年に
伽藍が再建されています。

方針・使命Policy/Mission

  1. お釈迦さま、道元禅師、瑩山禅師の「み教え」を信じ、毎日の生活の中の行い一つひとつを大切にすることを心がけ、身と心が調えられ私たちのなかにある「仏の姿」を明らかにし、互いに生きる喜びを見いだしていく 
  2. 伝統を重視しつつお寺の持つ可能性を追求し、開かれたお寺を目指し地域や社会の問題に積極的に取り組む
  3. 福田寺が今後も永代に渡って存続できるように、変化を厭わない

開基 野上氏Mr. Nogami

記録に現れたのは南北朝時代であるがその出自は明らかではなく、周防国都濃郡野上庄(徳山)に居住し、その在名をもって野上氏を称するようになったと伝えられる。 周防守護代陶氏の有力家臣として、南北朝期の大内氏一族の内紛に備え、大内弘世は1351年(観応2年・正方6年)吉敷郡陶の領主陶弘政を富田に移して以来、鷲頭長弘に対する攻撃の前進基地として野上庄に有力な被官を置いた。これが野上氏であろうと推測されている(『徳山市史』)。

1551年(天文20年)の大寧寺の変では、陶隆房の命により、筑前国花尾城に拠った相良武任や杉興運を攻撃し、自害に追い込む。 1555年(天文24年・弘治元年)には、大内義長から周防熊毛郡伊保庄佐賀村98石、佐波郡富海保46石、佐波郡三田尻58石、都濃郡富田中村13石5斗の地と、寺社領人給を除く長門国厚狭郡吉田一方地等の代官職を与えられた(『萩藩閥閲録』巻63「粟屋権兵衛」第4号、1555年(天文24年)。12月13日付 野上隠岐守(房忠)宛て大内義長判物)

同年の厳島の戦いの際には、吉見正頼に対する備えとして、長門渡川城の守備についた。厳島の戦いで陶晴賢が自害し、毛利元就による防長経略が始まって以後も、同族の野上道友と共に渡川城の守備を行っており、吉見正頼の攻撃を防いだが、次第に劣勢となったため、渡川城から山口に移り大内義長と合流した。

毛利元就による攻撃を受け、寡兵ながら高嶺城に拠ってよく防いだが、結局小郡から山陽道伝いに長門長府に逃れ、内藤隆世の且山城に入った。この時、房忠は陶長房の遺児・鶴寿丸を背負って従っていたという。

しかし、すぐに且山城も福原貞俊によって包囲され、内藤隆世は大内義長の助命を条件に開城し自害したが、義長も長福院に入った後に自害させられた。最後まで大内義長の供をしていた房忠も、鶴寿丸を刺し殺した後に自害した。辞世の句は「生死を断じ去って 寂寞として声なし 法海風潔く 真如月明らかなり」。

房忠の嫡子・左兵衛は、房忠の死去時に4、5歳だったが、元服後に毛利輝元に召し出されて「元」の一字を与えられ、野上元雅(孫右衛門)と名乗った。以後毛利氏に仕え、1630年10月10日(寛永7年9月5日)に死去している。 また、1557年(弘治3年)毛利氏に帰順して野上氏に代わって野上庄を拝領した杉元相は、野上氏断絶をいたみ、野上房忠の遺児を保護し、野村姓と「小城戸」の屋号を与え、一の井出に住まわせたと伝えられている。「きさんのさと 岐山地区コミュニティ推進協議会」

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